2009年08月のコラム

●黒猫チャチャとの思い出。(続編20)
◆7月後半に掲載した内容の続きになります。
●チャチャと家の中で動く物。(その2)
◆【すりガラスとチャチャ】
・いわゆる、ここで言うすりガラスというのは、部屋と部屋を仕切るガラス障子の事で、
 前回紹介したブラウン管テレビのある居間から、濡縁で紹介していた親の和室との間に1つと、
 居間の南側に面していたもう1つの和室との間に、更にもう1つガラス障子があったんです。

・まあ〜それぞれのガラス障子に、それぞれの懐かしい話というものがあるんですが、
 取りあえずは、順序立てて、家に来たばかりの幼かった頃のチャチャの話というのを紹介しているので、
 今回は居間の南側にあったガラス障子でのエピソードというのを紹介してみたいと思います。

・まあ〜すりガラス越しに動く物と言えば、だいたい想像はつくかと思いますが、
 ようは、そのガラス障子のすりガラス越しに動いて見えていた影というのは、
 家族の誰かが動かしていた手の指先だったというわけでして、暫くはこの動く影を使って、
 チャチャをおちょくって遊んでたというわけなんですよね。

・まあ〜このガラス障子というのは、不断からある一方向のみに寄せて開けていたというわけなんですが、
 ある時、自分が、何気なく居間に座っていると、遊んで欲しそうな感じでチャチャが寄ってきたもので、
 すぐ左側にあった、そのガラス障子の和室側に、左手だけを回し込み、
 手の届く範囲で、あっちこっちへと動かしてみたわけなんです。

・するとテレビで球技系のスポーツを見ていた時のような感じで、チャチャが見事に食い付いてきたもので、
 このすりガラスの影は遊べるといった感じで、取りあえず自分が飽きるまで手を動かし、
 その様子というのを暫く楽しんでたというわけなんです。

・まあ〜ある程度の期間は、このすりガラスの影で遊べていたんですが、いつ頃の事だったでしょうか、
 自分が、何となく居間で寝転がっていた時の事、 ふとチャチャがそのガラス障子の前にきて、
 何とも面白い行動を見せてくれたんですよね。

・それがどんな事だったかと言うと、
 ようは、自分がそのすりガラスを使ってチャチャをおちょくって遊んでいた時のような事を、
 何を思ったのか、不意に真似し始めたというわけなんです

・まあ〜チャチャと自分とでは、当然の如く、体の大きさ、手の長さが違うわけですから、
 チャチャの場合は、ガラス障子の敷居の上に座り込んでたように思いますが、とにかく自分同様に、
 和室側の方へは、左手を精一杯伸ばしつつ、居間の方へは、そのすりガラスを覗き込もうと頭を突き出し、
 何かを確かめるかのように、チョコチョコ・チョコチョコとその左手を動かしてるんです。

 そして、間も無くの事だったでしょうか、
 そのすりガラス越しに動いて見える、自分の左手の黒い影というものに、
 「えぇー〜、やっぱりそうだったのぉ〜」、みたいな感じで、
 なんとも言いようのない雰囲気になっちゃってたわけなんですよね。

・そこで、起き上がって、チャチャのそばへと行き、今までのような感じで、ガラス障子の反対側に手を回し、
 「ほら・ほら」と、チャチャの目の前で手を動かしてみた所、「はい・はい、それは、あなたの手でしょ」、
 みたいな感じで、全く興味を示さなくなってしまい、その日のその時をもって、
 すりガラスを使っての遊びからは、見事に卒業されてしまったというわけなんです。

・まあ〜チャチャからしてみれば、「こんなくだらない事で遊ばれちゃってたのか〜」、
 みたいな感じだったのかもしれませんけどね。
(2009.08.28)

●バイバイ扁桃腺。(続編5)
◆入院時期を覚えていた理由。
・まあ〜なんて事はない話なんですが、ようは、幼稚園の夏休みの最終日近くというのが退院日だったもので、
 帰省先から家に帰って来たのが、夏休み明けの初日になってしまったというわけなんです。
 そんなわけでして、幼稚園へは次の日からとなってしまい、その1日のおかげで、
 いわゆる皆勤賞を、見事に逃しちゃったという事があったわけなんです。

・まあ〜皆勤賞を逃してたぐらいでは、記憶になどは残っちゃいなかったんでしょうが、
 それじゃぁ〜なにゆえに入院時期を覚えていたのかと言うと、まあ〜単純な事だったというわけでして、
 ようは、その1日のおかげで、幼稚園の卒園時期に絵の具道具を貰いそこねてしまったからなんですよね。
 →いやぁ〜ほんと、なんて事はない理由だったわけなんですけどね。

→まあ〜そう言うわけでして、自身の扁桃腺に関する記憶というのはこんな感じだったというわけなんですが、
 ふと思ったのが、おそらくは、当時の今ぐらいの日付の朝に、この記憶のきっかけとなる、
 断れないお誘いというものを受けちゃってたんでしょうかね。

・まあ〜それでは、また来年の夏の時期には、いろんな意味で涼しくなれそうな、
 体験談というものを、いろいろと紹介してみたいと思います。
(2009.08.26)

●バイバイ扁桃腺。(続編4)
◆退院時の小話。
・退院時の事で覚えているのが、病院の中での事ではなく、帰省先の家に向かう、
 タクシーの中での事なんです。
・確か、母親がばあちゃんに電話をしていたようなんですが、そのばあちゃんからしてみれば、
 予定よりも早い電話だったもので、「とにかく迎えに行くから、ちょっと待っておくように、」
 みたいな感じの事を言われてたようなんですよね。


・しかし、ばあちゃんが自宅を出てしまう前に、タクシーでさっと帰ってしまおうといった話になり、
 タクシーで帰省先の家へとむかっていた時の事なんです。
→まあ〜容易に想像ができる事とは思いますが、一応紹介してみますと、
・母親が窓の外を見ながら、「あらぁ〜、病院に行きよぉ〜」っと一声。
 つられて窓の外を見てみると、ばあちゃんが病院に向けて、自転車を走らせてたというわけでして、
 結局の所は、自転車に乗っていたばあちゃんには気づいてもらえず、
 見事に擦れ違ってしまったというわけなんです。

・タクシーの運転手さんからは、「どうしましょうか?」といった感じで声をかけられたわけなんですが、
 母親の「あぁ〜いいですよ・そのまま家まで行ってください」みたいな感じの返答に、
 タクシーの中では、思わず笑い声が零れちゃってたですもんね。
・まあ〜そんなわけでして、家に着いて暫くした頃、
 サイクリングを終えたばかりのばあちゃんの小話と、タクシーで擦れ違った時の母親の小話とで、
 もう一笑いといった感じだったんですよね。

→まあ〜取りあえず退院時に印象深かった事というのは、こんな感じでしょうかね。
 と言うわけで、次回この体験談の最初の方で言っていた、
 入院時期を覚えていた理由というのを紹介してみたいと思います。●
(2009.08.25)

●バイバイ扁桃腺。(続編3)
◆メインイベント後の病室。
・手術後、病室に入ってからの記憶としては、先ずは氷嚢の事ですかね。
 当時、咽元にずっと当てて使っていた氷嚢の形というのは、今もそう変わらないとは思いますが、
 超特大のウインナーと言うか、芋虫というか、いわゆる咽元にフィットするような形状をした、
 薄くて柔らかいゴム性の物を、ずっと使って冷やしてたというわけなんです。
・まあ〜その氷嚢の色についてははっきりとは覚えていないんですが、どうでもいい事を1つ言えば、
 手術後の氷嚢の色というのに、赤とか黒とかがあったら、ちょっと強烈ですよね。

・そして、その氷嚢がらみで思い出すのが、顔を腫らした2人のお兄ちゃんが、
 廊下をはさんだ向かいの病室から、お見舞いを兼ねての挨拶に来られ、
 とにかく必要になるだろうからと、氷をプレゼントしてくれた事なんです。
・確か、そのお兄ちゃんたちは、蓄膿症の手術を受けてあったように記憶していますが、
 その腫れた顔を見てしまうと、自分よりも痛々しく感じちゃいましたもんね。

・まあ〜それから、手術後の入院時の笑い話として、時々聞かされた事というのが食事の事でして、
 ようは、流石は幼稚園児とでも言いましょうか、咽の痛みよりも食欲の方がまさってしまい、
 手術後の当日の夕食から、食べると言って食べちゃってたようなんです。
・まあ〜この事が功を奏したのかは判りませんが、結果的に言えば、
 予定よりも早く退院ができちゃってたようなんですよね。

・そこで入院時の食事というのがどんな感じだったかな〜、と記憶を探ってみた所、
 手術後の夕食前のやり取りというのは、何となく覚えているんですが、
 その夕食を含めた入院時の食事というのは、
 今となっては、さすがに覚えてないんですよね。

・まあ〜取りあえず1つだけ飲食にかんする事で覚えているのが、
 夜中に母親におんぶされて、病室からちょっと離れた所にある共同の冷蔵庫まで行き、
 暗い中、あのちっちゃなヤクルトを飲んでた事なんです。
・ほんと、全くもって、どんな事が記憶に残っているかは判らないものですね。
→それでは次回は、退院時の事でも紹介してみたいと思います。
(2009.08.23)

●バイバイ扁桃腺。(続編2)
◆入院時のメインイベント。
・いよいよ扁桃腺摘出時の話になるんですが、確か、午前中にその手術を受けていたんですよね
 当時は、局所麻酔での手術だったもので、その時の様子をちょっとばかり覚えているというわけなんですが、
 取りあえず前もって言っておきますと、痛みに関する記憶というのはほとんど残っていないんですよね。
・まあ〜覚えている範囲で書いてみますと、ようは、断片的な光景だとか、耳にしていた言葉というわけでして、
 先ずは椅子に腰掛け、「目は閉じてていいよ〜」とか、「口を大きく開けて〜」とか言われてたんです。

・ところが、なぜかパッチリと目を開いたまま、一部始終を見ちゃってたというわけでして、
 いわゆる、口の中に入っていく注射器だとか、口の中から出て行く取れたての扁桃腺だとか、
 青っぽい色をしたビニールの中に入って行く、そのフレッシュな扁桃腺だとかを、
 バッチリと見ちゃってたわけなんですよね。

・その後は看護婦さんに抱きかかえられて、近くにあった処置用の台に寝かされ、
 親たちが用意していた、ロール状ではなく、1枚1枚になって重なっている、
 縦長のビニールに入った新品のトイレットペーパーを使って、
 あの特有な味を口の外に出していたというわけなんです。

・まあ〜どのくらいの時間を、そこで横になっていたのかは判りませんが、その後の病室への移動というのは、
 外で待たされていたじいちゃんに抱きかかえられ、つれて行ってもらったとの事だったんです。
 ところが、その辺りの記憶というのは、今となっては、そう言われればそうだったかな〜、
 といった感じですもんね。

・とにかく、その時のじいちゃんの様子だとか、お医者さんから聞かされた笑い話としての、
 「目を閉じてていいよ」と言っても、閉じずに見てしまっていた自分の様子の感想だとかは、
 ずいぶん後になってからの母親の笑い話として知る事となったわけなんですよね。
 まあ〜メインイベントの事で思い出すのは、こんな感じでしょうかね。

→そこで、つづいて思い出すのが、メインイベント後の病室の事というわけでして、
 それについては、また次回、紹介する事とします。
(2009.08.21)

●バイバイ扁桃腺。(続編1)
◆入院当日の病室での記憶。
・当時、いきなり聞かされ、強制的につれて行かれてしまった、帰省先の病院だったわけなんですが、
 先ず記憶に残っている事というのが、
 その当時の呼び方でいう、看護婦さんに案内された病室なんですよね。
・いざ病室へ入ってみると2人部屋で、すでに入り口の左側のベッドには
 自分よりも年上の女の子が入院してたんですよね。

・確か、ベッドサイドには、ご両親がいらっしゃっていて、挨拶後の会話の中では、
 その日が退院日だったようで、どうやら最後の診察を待っている状況だったようなんです。
・まあ〜殆どが親同士の会話だったわけなんですが、その中で他にも覚えている事というのが、
 年上の女の子が小学4年生だったという事と、自分がこれから受ける扁桃腺の摘出を、
 1週間ぐらい前に受けて、入院していたという事ぐらいですかね。

・そう言えば、その女の子が自分がこれから受ける手術をすでに受けていたという事もあって、
 当然と言えば当然かもしれませんが、わけのわからないままつれて来られた幼稚園の年長さんが、
 すぐ横にいるにもかかわらず、自分の親がその女の子にいろいろと聞いちゃうわけなんですよ。
 ほんと、確りびびらせてくれていた事を思い出しちゃいますね。

・そして、次に思い出すのが、その入院当日だったのか、翌日だったのかは覚えていないんですが、
 いわゆる入院時のメインイベントである、扁桃腺とのお別れセレモニーなんですよね。
→まあ〜そこで、今日は俳句の日だそうですから、扁桃腺がらみの川柳もどきを
 取りあえず作ってみようかと考えてみたんですが、
 どうにも、今後の予告編みたいなフレーズばかりが浮かんできてしまうもので、
 今回はやめておこうと思います。
(2009.08.19)

●バイバイ扁桃腺。
◆去年の秋頃のフレッシュルームコラムで、小学時代の予防接種の事を紹介していたんですが、
 その際にちょっとだけ触れていた、扁桃腺を摘出した時の話というものを、今回紹介してみようかと思います。
・まあ〜ようは、幼稚園の年長さんの頃の体験話なんですが、とにかく印象深い事ばかりだったもので、
 今でも、いろいろと思い出せてしまうんですよね〜。

・とにかく、手術した時期を覚えているというのにも、幼稚園児らしいそれなりの理由があるんですが、
 これについては最後の方に書くとして、その手術を受けた時期というのが、
 夏休みの終わり頃で、帰省先の病院だったわけなんですよね。
・まあ〜後から聞いた話によれば、個人病院の耳鼻咽喉科だったようなんですが、
 取りあえず、今回は、入院寸前の当日の朝の事から紹介してみたいと思います。

・そこで、なんとなく覚えている事というのが、
 :「今から(どこどこ)に、泊まりに行くよ」みたいな感じの言葉を、
 親か、じいちゃん・バアチャンかにいきなり聞かされたというわけなんです。
・まあ〜今となっては、何時頃に病院へお泊りに行ったのかなどははっきりとは覚えていないんですが、
 当時のその朝の事で最も印象深いのが、何も知らされていなかったのに、
 とにかく、何とも言えない、いやぁーな雰囲気を幼稚園児ながらに、
 見事に味わっちゃってたという事なんですよね。

・まあ〜当時、どんな感じで家を出たのかは全く覚えていないんですが、順序立てて記憶を辿ると、
 次に思い出すのが、入院当日の病室の事なんですよね。
→と言う事で、続きは次回へと引っ張っちゃいます。
(2009.08.18)

●花火大会小話。
●お盆と花火大会。
◆小学生だったか中学生だったかは覚えてはいないんですが、帰省先から帰宅していた時の事なんです。
・ようは、夜には帰省先で花火大会が行われる事になっていたんですが、それを見て帰るとなると、
 渋滞にも引っかかるだろうし、当然家に帰り着くのも遅くなるだろうという事から、
 :「花火大会が始まる前に家に帰ろう」といった親の判断に、しぶしぶ車に乗り、
 帰省先を後にしたという事があったんです。

・ところが、いざ最寄のインターに入ってみると、すでに大渋滞になっていたというわけでして、
 高速の乗り口は後ろの方に見えているのに、降りたくても降りられないといったその状況に、
 家族のそれぞれが、動かない車の中で愚痴でもこぼしていたわけなんです。

・そして、暫くした時の事、外から独特の音が聞こえ始めてきたもので、
 ・「えぇ〜もう花火が始まる時間て事ね〜?」・「ここからだったらどっちの方向に見えるんかね〜?」、
 みたいな感じで窓の外をキョロキョロと覗き込んでいた所、
 :「あっちの方なんやけど、ちょうど今あの山の陰になってしまっとるもんね」といった感じで親が返答。
・時よりちょっと進むその渋滞の中、どうやら車の位置というのがよかったのか、意外と早く花火が見え始め、
 結局の所、その花火大会の終わり近くまでを、打ち上げ花火だけではありましたが、
 高速の上から車に乗ったまま見れてしまっていたという事があったんです。
 →まあ〜あの時は、高速に入ってからの最初の1キロぐらいというのを、1時間もかかっちゃってましたからね。

・そう言えば、頭上に降り注いでくるような花火を初めて体験したのが、
 子供の頃の、この帰省先の花火大会だったんですよね。
・まあ〜あの頃というのは、河川敷をけっこう自由に見物ポイントとして使えてましたから、
 迫力のある花火が見れていたというわけなんですが、そんな頃だったですかね、、調子にのりすぎた見物客が、
 打ち上げ場所に余りに近づきすぎたため、やけどをして救急車が来てた事もあったんですよね。
・当然一時的に打ち上げが止められ、その辺りで見物をしている人たちに移動するまで打ち上げは再開しないと、
 アナウンスが繰り返されていたんですが、これがなかなか動かない連中だったため、
 終いには、周囲の見物客たちから、ぼろくそに言われるはめになっちゃってましたもんね。

→いやぁ〜若くて元気だったじいちゃん・ばあちゃん・おばちゃん、
 何はともあれ、懐かしい〜の一言です。
(2009.08.15)

●お盆時期の小話。
●小学時代のお盆と肝試し。
・おそらく今でも行われているんじゃないかとは思いますが、あるお寺のお盆時期の祭りの中で、
 夕方ぐらいから、そのお寺の敷地を使って肝試し大会なるものが行われていたんです。
・まあ〜前回紹介していた、小学校での肝試しというのは、小学校で一晩を過ごすイベントの中での
 いわゆる夜のメインイベントだったというわけでして、設定されていたコースを、
 何人かが一組となって移動していたわけなんですが、当時のそのお寺での肝試しというのは、
 そのコース上をお客が1列縦隊みたいな感じで、見事に埋めつくしてしまっていたというわけなんです。
 →まあ〜、これぞ、数珠繋ぎといった所なんでしょうけどね。

・とにかくその肝試しでは、お化け役のバイトの人たちが何人いたのかは判りませんが、
 取りあえず、自由に動き回って、どこから飛び出てくるか判らないといった感じで、
 お客を楽しませようとしていたみたいなんです。
・が・しかし、あっちこっちで声はするけど、自分達の周囲にはちっとも現れないままに、
 結局の所、出口へと到着してしまったという事があったわけなんです。

・とにかくあまりに退屈だったもので、一緒に行っていた者と、そのコース上の壁代わりの布を
 時々チョロットめくっては、他のお客をおどろかしている、お化け役の後姿でも覗き込みつつ、
 暇をつぶしながらコース上を移動してたんですよね〜。
→まあ〜肝試しに行っていながら何事も無かったという、唯一の経験ではありますが、
 いやぁ〜、お化け屋敷や肝試し、ほんといろいろと思い出してきちゃいましたね〜。

・そう言えば、飛び出して来るといったら、小学校低学年ぐらいの時に行った
 香椎花園のお化け屋敷の事があったですね
 確か、出口辺りでおもいっきり油断している所に、空中ぶらんこみたいな者に乗った一つ目小僧が、
 頭を下に向けて飛び出して来たんですよね。
・結局の所、そのお化け屋敷のどんなお化けよりも、見事に不意をつかれてしまったその仕掛けというものに、
 1番おどろいてしまっっていたというわけでして、
 今となっては、そのお化け屋敷で覚えている事と言うのが、その一つ目小僧だけですもんね。
(2009.08.13)

●暑い時期に関連して。
●この時期に関連した懐かしい記憶。
◆夏休みという言葉を聞くと思い出すのが、小学時代の5年か6年の頃の何かしらの作文で、
 あるイベントを提案した事があったんですよね。
→それがどんな事だったかと言うと、
・ようは、夏休みに校舎を利用しての肝試しができないかと、学校側に提案するような感じで
 当時、作文を書いていたというわけなんです。

・まあ〜何気なく提案した事だったもので採用されなくてもたいして気にはならなかったんですが
 翌年の事、1学年下の、夏休みの学校でのイベントの中で、
 校舎を使っての肝試し大会が初めて実施されたという事を身近な者から耳にしたもので、
 「えー、自分達の学年ではそんな事せんやったのに〜・だいたいそれ言い出したのは俺やけね〜」と、
 ちょっぴりくやしがっていたという事があったわけなんです。

→まあ〜その小学校というのも出来たばかりの学校というわけではなかったので、
 実際の所は初めてだったのかは定かじゃないんですが、何やら盛り上がったという事を聞いてしまうと、
 とにかく複雑な感じだったですもんね。

・まあ〜そんな事はどうでもいいとして、当時その肝試し大会の様子を聞いていた事で記憶に残っているのが、
 先生や生徒の親たちがお化け役となって、校舎内のコース上にある、あちらこちらの教室やトイレに隠れ、
 生徒たちを楽しませていたようなんです。

・ところが、その肝試しをほんとの意味で満喫する事となってしまったのは、
 生徒が来るまで、単独で暗い場所に息を潜めていなければならなかった、お化け役の人たちだったという、
 いわゆる逆肝試しみたいな状況になってしまっていたという事を耳にし、
 容易に想像ができるその光景に、思わず噴き出してしまったという事があったんですよね。

→まあ〜くれぐれも階段の途中で飛び出し驚かすような事は危ないですからやめといてくださいね。
 しかし、階段の所で何もないというのも面白みに欠けてしまうでしょうから、
 その辺りは、一工夫といった所でしょうけどね。
(2009.08.11)

●この時期に関連した話題。
●原爆に関して聞いた話
◆原爆に関して言えば、広島で体験された方とは面識がなく、直接聞いた話としては、
 長崎にかんする事を時々耳にしていたんです
 今回はちょっと視点を変えた感じで、長崎の原爆について聞いていた話というのを紹介してみたいと思います。

・数年前に会ったのが最後となっている方から聞いていた話なのですが、
 当時、この方は満州へ音楽の先生として行かれていたそうで、ちょっと呼び方は忘れてしまいましたが、
 どうやら、女性団長というのも兼ねてあったようなんです。
 確か、鉢巻を締めて「あーしよった・こーしよった」と言ってあったようなんですが、
 ちょっとその辺りの記憶というのは不確かなんですよね。

・まあ〜ようは、この方から聞いた話で印象深かったというのが、
 広島・長崎の原爆や終戦をその満州で聞いたとの事で
 そこでは、広島・長崎は草1つ生えていない焼け野原になってしまっているといった情報が流れていたそうで、
 そんな不安を抱きながらの、終戦後の本土寄港だったようなんですよね。

・寄港時の話によれば、その方が乗った船は長崎に寄港したそうで、
 会場から長崎の陸地が見えた時には、「あぁ〜、木があるじゃない・何々もあるじゃない」といった感じで、
 乗員乗客みんながざわめいていたとの事でしたよ。
 しかしながら、そんな気分は束の間といった感じで、上陸後というのは、
 やはりとんでもない光景を見る事になってしまったと話してあったですもんね。

→そこで思わず聞いてしまったのが、
 「えー、長崎の港ですか〜?・原爆が落とされたと判っていながら長崎の港に寄港したんですか〜?」
 だったですもんね。

◆まあ〜話は変わりますが、麻薬の蔓延は、ほんと困ったもんですね。
・確か、今年の2月最初の方のフレッシュルームコラムで、シンナーやタイマなどに関した、
 川柳もどきを掲載していたと思いますが、
 とにかく依存者らの手招きとか、ただの金づるとして手招く者の存在とか、
 表現が乱暴かもしれませんが、とにかく悲惨な成れの果ての記録でも見せて、
 確りびびらせておく必要とかがあるんじゃないでしょうかね。
★ほんと、何事も経験とかじゃないんですからね。
(2009.08.09)

●この時期に関連した小話。
●8月のこの時期辺りはご年輩の方から聞いた若き頃の話というのを紹介してみたいと思います。
・まあ〜去年のこの時期にも少しだけ紹介したんですが、聞いた話の中でも
 笑い話として聞かせてくれたものを1つ。

◆旅立たれてもう7〜8年経つこの方は海軍におられたとの事だったんですが、
 洋上では頭などを洗う時にはスコールを利用していたそうで、その時もある洋上を移動中に、
 スコールが来たもので、この雨水を利用して頭を洗おうと、手の空いた者たちが甲板に出て、
 頭を泡立てていたようなんです。

・ところが、そのスコールがあっさりと止んでしまったもので、甲板上の者の頭が泡だったままとなってしまい、
 それぞれが顔を見合わせると、そのどうしようもない状況に、思わずみんなで笑ってしまったと、
 思い出し笑いをされながら話してあったんですよね。
 まあ〜この方の面白いエピソードというのもいろいろと思い出しますが、自身の話ではないので、
 個人的に懐かしむ事にしときます。
(2009.08.05)

●8月が始まったようですね。
◆今月はどんな内容から始めようかと思いましたが、こんな内容から始めてみましょうかね。
 《なんだかんだ言っても健康が一番ですよ》
 《例え時間やお金があっったとしても、それなりに健康でなければ楽しくは使えませんからね》
 といった言葉を人生の先輩方からよく耳にし、ふと思い出すのが、介護概論かなんかに書かれてあった、
 【健康とは人生目標を達成する手段である】という言葉なんです。

◆そこで人生の先輩方から聞いていた、他のいくつかを紹介してみますと、
●生き方に関する80代前半の方の一言。
《趣味が無いまま40を超えた人は、年をとっても続けられる何かをそろそろ探して始めておいた方がいいですよ》
→ようは、無趣味のまま定年を迎え、とにかく苦労しちゃってる人というのを何人も知っているからだそうです。
《寝込まずにぽっくり行くためにも、体の手入れは大切ですもんね》
→まあ〜とにかく、いろいろとご経験されてあったようです。
●当時60代前半の方が「ご高齢の方には当てはまらないかもしれませんが」と言った感じで一言。
・死ぬ時は死ぬと言った感じで息巻く人がよくいるでしょ、でもあんなの嘘ですよ》
 私もそうでしたけど、40代後半の頃お医者さんからいざ自分の命が危ないと聞かされたとたん、
 今まで適当にしか拝んだ事がなかった仏壇にまで真剣に拝みまくりましたからね。

→まあ〜こんな話などもご本人から笑い話として聞かせてもらったというわけなんですが、
・とにかく健康という概念にも社会的なもの・心身的なもの・持病や障害があったとしても、
 その中にも調子が良い悪いがあり、一概に言う事はできないんですけど、
 いざ何かをしてみようと思った時に、その度に心身面の不健康に邪魔されてしまったらもったいないですよね。

◆そこで当たり前過ぎる事を偉そうに一言。
・《過去の結果が今であり・今に活かすための過去である》
・《未来を想像するから今が決まり・今の生き方が未来へと繋がる》
(2009.08.01)

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